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MotoGPコミニュティーは故加藤大治郎と共に

MotoGPコミニュティーは故加藤大治郎と共に

MotoGPコミニュティーは故加藤大治郎と共に

04年シーズン開幕戦南アフリカGPの舞台は、MotoGPコミニュティーにとっては特別な意味がある。昨年、会場のパキサ・フリーウェイに駆けつけたファンとMotoGP全関係者は、日本GPで悲劇のアクシデントに見舞われ、帰らぬ人となった加藤大治郎を偲ぶ1分間の黙祷を行った。

テレフォニカ・モビスタ・ホンダとセテ・ジベルナウは、チームメイトに捧げる感動的な優勝を飾った。そして今年は一周忌を偲んで、ピットボックス内で1分間の黙祷を行った。MotoGPコミニュティーも当時を振り返り、本物のMotoGPレジェンダを偲んだ。

加藤大治郎は1976年7月4日生まれの埼玉県浦和市(現さいたま市)出身。モーターサイクル界に生き、レース中の事故により帰らぬ人となった。3歳の時、地元のサーキット秋ヶ瀬でポケバイを始めてから、驚異的でスペクタクロな速さで頂点へと突き進み、2001年には世界選手権250ccクラスを圧倒的な強さで制覇した。

世界最高峰、MotoGPクラスまでステップアップした加藤へ、多くのファンが日本人最高のライダーだと評価を与え、日本人初のMotoGPクラス制覇へと期待が寄せられていた。全日本の舞台でも、世界舞台でも、加藤は常に速く、技術の高いライダーであることを証明。一方で、もの静かで礼儀正しい好青年は、世界中のファンから愛されていた。

僅か9歳の時、全日本ポケバイ選手権で総合優勝を飾った加藤は、その頃から偉大なタレント性を発揮していた。1987年、11歳の時にミニバイクにステップアップ。1991年にはチャンピオンとなった。16歳になると1993年にロードレースにデビューを果たし、1994年には全日本ロード選手権250ccクラスで初勝利を挙げてランキング7位。1996年にはワイルドカードライダーとして日本GPに初挑戦し、3位を獲得。世界にその名を広めた。

翌1997年にはホンダレーシング(HRC)入りを果たすと、加藤は全日本初制覇。鈴鹿8時間耐久ポールポジションと総合9位。そしてワイルドカードで参戦したシーズン開幕戦日本GPでは初優勝と、期待に応える著しい活躍を披露。1998年には日本GP連勝を果たすと、2000年世界への切符をゲットした。

ファウスト・グレシーニ率いるチームから250ccクラスにフル参戦を果たす加藤は、ラテン系スタッフたちと精密に注意深く、そして情熱的に仕事に取り組んだ。サーキット外では、イタリアの海岸沿いに欧州の拠点を構え、真樹子夫人と一緒に静かなイタリア生活を満喫した。初のフル参戦シーズン開幕戦鈴鹿でポール・トゥ・ウィンを決めると、ポルトガルGP、ブラジルGP、そして地元パシフィックGPと4勝をマークしてランキング3位とルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。夏恒例の鈴鹿8耐では、ホンダの同僚、宇川徹とのコンビで優勝を飾った。

2シーズン目の2001年。グレシーニは才能溢れるタレントを手放すことはなかった。タイトル最有力候補は、圧倒的な強さで勝ち進み、伝説のライダー、アントン・マングとヘイルウッドが記録したシーズン最多勝利を塗り替える11勝を樹立。250ccチャンピオンを獲得した。

2002年、グレシーニ&加藤コンビは、最新型ホンダNSR500を武器にロードレース最高峰、MotoGPに挑んだ。4ストロークマシンが圧倒的な強さを見せる中、第3戦スペインGPでは2位を獲得。苦しい戦いを強いられ2ストローク勢の中にあって最高の成績を上げた。鈴鹿8耐ではコーリン・エドワーズとのコンビで2度目の優勝を飾ると、サマーブレーク明けの第10戦チェコGPからRC211Vを得て、予選2位、決勝2位表彰台を獲得。再び存在感を示した。しかし、シーズン途中からの乗り換えなど困難な問題もあり、その後は表彰台から遠ざかった。

加藤ファンは、2003年シーズン開幕が待ち遠しかった。数多くの旋風を巻き起こした鈴鹿の舞台に、MotoGPタイトル獲得へ挑むヒーローの勇姿を見ることを心待ちにしていた。しかし、決勝レース3周目に悲劇的な事故に遭遇。13日間、加藤は入院先の病院で闘った。が、最後レースに勝利することはなかった。

最も輝く日本人スターライダーが帰らぬ人となったが、多くの人々の心にはスタンドから、そしてテレビから通して観たゼッケン74番加藤大治郎の思い出がずっと残ることだろう。そして、一晃くんと生まれたばかりの長女にも。

Tags:
MotoGP, 2004

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