ホルヘ・ロレンソのプロフィール

史上最年少の記録を次々に書き換え、キャリア通算5度のタイトルを獲得したキャリアを振り返る。

1987年5月4日生まれ。出身地は、スペインの地中海に浮かぶマジョルカ島のマルパ・デ・マジョルカ。3歳の時からミニクロスのレースに参加すると、9歳でミニクロス、トライアル、ミニバイク、モトクロスのマジョルカ選手権を独占。11歳で2年目のコパ・アプリリア(50cc)を制した実績が認められ、スペイン連盟から特別許可を得て、若干13歳で国内選手権125ccクラスへの参戦を開始。

2002年5月4日。当時の競技規則に従い、出場最低年齢となる15歳の誕生日を待って、デルビのファクトリーチームから第3戦スペインGPの2日目にデビュー。翌日の決勝レースで、2000年最終戦オーストラリアGPでステファノ・ビアンコが樹立した史上最年少記録を更新(15歳と2日)。

同年の第6戦カタルーニャGPで、史上最年少ポイント獲得記録を更新(15歳と42日)。2003年の第12戦リオGPでは初優勝を飾り、史上2番目の最年少優勝者となり、このとき、ケーシー・ストーナーとダニ・ペドロサをアウト側から抜いたことから、そのイメージを基にロゴを作成。

125ccクラスで総合4位に進出した翌年の2005年に、フォルトゥナ・ホンダから250ccクラスにステップ。総合5位を獲得すると、2006年にはアプリリアのエースライダーに指名され、中量級の最多記録に並ぶ年間10度のポールポジションを獲得。7度のポール・トゥ・ウインを含む8勝を挙げ、初タイトルを獲得し、史上2番目の最年少チャンピオン(19歳と178日)に輝いた。

同チームからタイトル防衛に挑んだ2007年は、9度のポール・トゥ・ウインを含め12度の表彰台を獲得。史上2番目の最年少2連覇に成功。

参戦7年目の2008年、ヤマハのファクトリーチーム、フィアット・ヤマハから最高峰クラスに初参戦。デビュー戦でポールポジションから表彰台を獲得。第3戦ポルトガルGPで、新人としては史上初となる3戦連続のポールポジション、史上5番目となる最年少優勝、史上2番目となる最年少3クラス優勝、史上最年少の3連続表彰台獲得の記録(20歳と345日)を更新。

第6戦イタリアGPで史上最年少となる100戦目を達成(21歳と28日)するなど、開幕から次々に記録を更新して行くが、右足首を骨折した第4戦中国GPのハードクラッシュから転倒が増え、第7戦カタルーニャGPで頭部を強打してドクターストップ。第11戦アメリカGPでは両足を骨折。

総合4位と新人王を獲得した後、ゼッケンをデビューから使用していた48から99に変更。1年目の経験を活かした走りで4勝を含む12度の表彰台を獲得し、シーズン終盤までタイトル争いを展開して総合2位を獲得。

3年目の2010年は、開幕から安定した速さと強さで優勝と表彰台を次々に獲得し、第15戦マレーシアGPで史上6番目となる最年少チャンピオンに輝く。さらに、最終戦バレンシアGPの優勝で年間最多獲得ポイント(383ポイント)、年間最多タイとなる16度の表彰台、年間最多タイとなる18戦連続のポイント連取を達成。

ヤマハ参戦50周年記念となるファクトリーチームのエースとして、チャンピオンナンバーのゼッケン1に変更して挑んだ2011年は、安定して表彰台を連取し、総合2位を獲得。

ゼッケンを99に戻した2012年は、全18戦中6勝を含む16戦で表彰台を獲得。年間最多となる16度目のトップ2入りを達成し、最高峰クラスで2度目のタイトル獲得に成功。

2013年は、後半戦に5勝を含む9戦連続の表彰台を獲得し、最終戦バレンシアGPまでタイトル獲得を展開したが、第7戦TTアッセンの左鎖骨を骨折、第8戦ドイツGPの転倒による欠場が影響して総合2位。2014年は、フラッグ・トゥ・フラッグとなった第14戦アラゴンGPまで優勝が挙げられず、総合3位に後退。

2015年は、第4戦スペインGPから自己最多となる4連勝を達成すると、最終戦バレンシアGPで年間7勝目を挙げ、7ポイント差の逆転に成功。3年振り3度目、史上12人目となる通算5度目のタイトルを獲得。

2016年は、ウェットコンディションとキャリア最多を記録した11度の転倒(3度の転倒リタイア)が影響し、総合3位に後退。

2017年は、9年間所属したヤマハ発動機から離れ、ドゥカティのファクトリーチーム、ドゥカティ・チームから参戦。3度の表彰台を獲得したが、最高峰クラスで初めて未勝利のシーズンとなり、総合7位。2年目はドゥカティのホームレースとなった第6戦イタリアGPで優勝を挙げ、3勝を含む4度の表彰台を獲得したが、第14戦アラゴンGPで右足、第15戦タイGPで左手首を負傷したことが影響して総合9位。

フル参戦18年目、最高峰クラス12年目の2019年は、2018年6月6日に2年契約を締結したHRCのファクトリーチーム、レプソル・ホンダから参戦。

右足と左手首が万全に回復していない状態で11月に2度のテストに参加。ドゥカティからホンダへの乗り換えを始めたが、年明け最初の走行となる2月のオフィシャルテストの前に左手首を骨折。相次ぐ負傷から完治していない状態で実戦を通じながらホンダへの乗り換えに取り組んだが、第7戦カタルーニャGP後のオフィシャルテストでハードクラッシュ。第8戦TTアッセンの転倒で胸椎を2か所骨折したことから、4戦に欠場。第12戦イギリスGPで復帰を果たしたが、最終戦バレンシアGPを前に現役からの引退を決断した。