1993年2月17日生まれ(2024年開幕時の年齢は31歳)。出身地はスペイン・カタルーニャ州リェイダ県のセルベーラ。4歳の時に初めてバイクに乗り、5歳からカタルーニャ州で開催されたエンドゥーロとモトクロスのレースに参戦。2年後にモトクロスのカタルーニャ選手権でタイトルを獲得すると、翌年2002年にロード転向。2004年に同郷リェイダ県出身の元軽量級王者エミリオ・アルサモラに出会い、本格的にレース活動を開始。1年目の『カタルーニャ選手権』でポル・エスパルガロに続いて総合2位に進出すると、2年目と3年目にタイトルを獲得。
2006年からは『スペイン選手権』に参戦。1年目は総合8位。ホンダ機からKTM機に乗り換えた2年目は、3戦ヘレス大会で初優勝を飾ったが、シーズンを通して導入された重量制限の規定に苦しみ総合9位に後退。
2008年、ティト・ラバットのチームメイトとして、レプソル・KTMから世界舞台に初参戦。プレシーズンのオフィシャルテストで右前腕を骨折したことから序盤2戦を欠場。当時のエントリーリストの中で最も小柄な身長148センチ、体重40キロだったことから、最低重量を満たすために約20キロのバラスト(重量物)をバイクとツナギに積み込んで第3戦ポルトガルGPでデビューすると、第4戦中国GPで12位に入り、当時の史上最年少4番目となるポイント圏内に進出。第8戦イギリスGPでは3位に入り、史上最年少2番目となる表彰台を獲得(15歳と126日)。
参戦1年目でKTM勢の最高位(総合13位)に進出した成績が評価され、2009年はファクトリーチーム、レッドブル・KTM・モトスポーツから参戦して総合8位に浮上。
2010年、KTMの撤退に伴い、アジョ・モータースポーツに移籍。デルビ機に乗り換えると、第4戦イタリアGPで初優勝を挙げた勢いに乗って、史上最年少の5連勝を達成。第17戦ポルトガルGPでは、雨天中断後のサイティングラップで転倒を喫したことから、ピットに戻ってマシンの修復を強いられ、最後尾16番グリッドからスタートしたが、15人を抜いて年間10勝目、12度目の表彰台を獲得。
最終戦バレンシアGPでエスパルガロ弟、ニコラス・テロールとのタイトル争いを制し、史上2番目となる最年少王者(17歳と264日)に輝いた。
2011年、マルク・マルケスのために結成されたチーム・カタルーニャ・カイシャ・レプソルから中量級に参戦。開幕から3戦連続の転倒を喫したが、第4戦フランスGPで初優勝を挙げると、第9戦ドイツGPでは19歳以下の最多優勝となる通算14勝目を達成。第17戦マレーシアGPのフリー走行1で転倒を喫した際に左目の視力障害に見舞われたことから、残り2戦の欠場を強いられ、2年連続の2クラス制覇を逃したが、新人王と2年連続のプライベートライダーに選出。
2012年、開幕直前のオフィシャルテストで視力回復を確認。準備が整わない状態で迎えた開幕戦カタールGPで優勝を挙げると、第11戦インディアナポリスGPでは20歳以下の最多勝記録を更新する22勝目。第17戦オーストラリアGPで、年間13度目の表彰台を獲得し、中量級において史上3番目となる最年少王者(19歳と254日)に輝く。
チャンピオンとして凱旋した最終戦バレンシアGPは、フリー走行のアクシデントにより、ペナルティが科せられ、最後尾33番グリッドからスタートしたが、史上最多となる32つのポジション奪取で年間9勝目、『Moto2™』の最多勝となる16勝目を挙げ、故・加藤大治郎が2001年に樹立した中量級の年間最多獲得ポイント(322ポイント)を更新する324ポイントを稼いだ。
2013年は、新人のファクトリーチーム加入が解禁となったことを受け、2012年7月2日にHRCとの間で2年契約を締結しレプソル・ホンダから最高峰クラスに参戦すると、開幕戦カタールGPで3位に入り、史上最年少の表彰台とファーステストラップ(20歳と49日)を記録。
新設サーキット、サーキット・オブ・ジ・アメリカズで初開催された第2戦アメリカズGPで史上最年少のポールポジション獲得(20歳と62日)、フレディ・スペンサーが1983年に樹立した史上最年少優勝(20歳と63日)を30年振りに更新。
第3戦スペインGPで史上最年少の3戦連続表彰台(20歳と77日)。第11戦チェコGPでマイク・ヘイルウッドが1962年に樹立した史上最年少の4連勝(20歳と189日)を51年ぶりに更新。第12戦イギリスGPで新人の年間最多表彰台獲得ポイントを更新。第14戦アラゴンGPで新人の史上最多勝となる6勝目を達成。
タイヤの耐久性を考慮した安全面の特別処置により、新品タイヤを装着したマシン乗り換えが義務付けられた第16戦オーストラリアGPでは、ピットインのタイミングを誤認したことから失格となったが、最終戦バレンシアGPで年間16度目の表彰台を獲得。スペンサーが樹立した史上最年少王者(20歳と266日)を更新し、ケニー・ロバーツ以来となるルーキーチャンピオンに輝き、ハイルウッド、フィル・リード、バレンティーノ・ロッシに続く、史上4人目の3クラス制覇に成功。
2014年、開幕戦カタールGPでポール・トゥ・フィニッシュを決めると、第10戦インディアナポリスGPでヘイリウッドが1964年に樹立した史上最年少の10連勝(21歳と174日)を更新。同時に1970年のジャコモ・アゴスチーニ以来2人目となる開幕からの10連勝、1997年のミック・ドゥーハン以来5人目となる10連勝を達成。
第15戦日本GPで2位に入り、史上最年少の2連覇を達成。ホンダのライダーとしては初めてホームサーキットのツインリンクもてぎでタイトル獲得に成功し、最終戦バレンシアGPでは13勝目を挙げて年間最多勝を更新。
2015年は、第10戦インディアナポリスGPでホンダに通算700勝目をもたらし、第16戦オーストラリアGPでは、史上8人目となる通算50勝目に到達したが、開幕戦カタールGPのコースアウトをはじめ、第3戦アルゼンチンGPの接触転倒や第6戦イタリアGPの転倒などリタイアが相次ぎ、総合3位に後退。
2016年は、タイトル連覇に失敗した経験を教訓とし、確実にポイントを稼ぐことに専念して表彰台を連取。第15戦日本GPで年間5勝目、11度目の表彰台を獲得し、タイトル奪回に成功。
2017年は、第15戦日本GPで史上最年少となる通算100度目の表彰台(24歳と240日)を獲得するなど、6勝を含む12度の表彰台を獲得し、最終戦バレンシアGPで2年連続4度目、通算6度目のタイトルを獲得。
2018年は、初開催の第15戦タイGPで史上最年少となる50度目のポールポジション(25歳と231日)から優勝。第16戦日本GPで8勝目、13度目の表彰台を獲得し、最高峰クラス4人目となる5度目のタイトル、チャンピオンシップ史上8人目となる通算7度目のタイトル獲得に成功。第18戦マレーシアGPで史上5人目となる通算70勝目を達成し、12月4日に脱臼癖があった左肩を手術。
2019年は、2018年2月26日に契約期間を2年延長したHRCのファクトリーチーム、レプソル・ホンダから継続参戦。第15戦タイGPで9勝目を挙げ、4年連続6度目、キャリア通算8度目のタイトルを獲得。全19戦で12勝、トップ走行中に転倒リタイヤした第3戦アメリカズGPを除き、18戦でトップ2入りを達成し、史上最多となる420ポイントに到達。11月27日に脱臼癖を治すために右肩を手術。
2020年は、2月20日にHRCとの間で契約期間を2021年から2024年まで、4年間延長することで合意。異例の長期契約を締結すると、右肩のリハビリが長引いたが、新型コロナウイルスによるパンデミックの影響を受け、4ヶ月遅れとなった7月のシーズン緒戦、第2戦スペインGPを迎え、決勝レースでトップを走行中の5ラップ目にコースアウトを喫して18番手まで後退。20ラップ目までに15人を抜いて3番手に浮上し、2番手を射程圏内に捉えたラスト4ラップ、22ラップ目の3コーナー(2008年2月20日にデビュー前のオフィシャルテストで転倒して右前腕の尺骨と橈骨を骨折したときと同じコーナー)で転倒を喫した際に横転したバイクのフロントタイヤが右上腕骨に激突したことから骨折。
転倒から2日後の7月21日に手術を受け、4日後に第3戦アンダルシアGPの参戦を目指してヘレス・サーキット‐アンヘル・ニエトに戻り、メディカルチェックで出走許可を得て6日後の2日目、フリー走行3から走行を開始したが、公式予選1の1ラップ目にパワーダウンが原因で走行をキャンセルし、チーム、医師団と相談して欠場を決断。
手術から13日後の8月3日、自宅で窓を開けようとした際に右上腕にストレスがかかり、プレートが折れたことから、新しいプレートに交換する手術を受け、体外衝撃波治療を中心としたリハビリ治療に専念。最終戦ポルトガルGPまで欠場。
転倒から137日後の12月3日、治癒が遅く、骨癒合プロセスが停止していたことから3度目の手術、偽関節の手術を受け、プレートの除去と皮質骨膜遊離皮弁(ひしつこつまくゆうりひべん)を備えた腸骨稜骨移植片(ちょうこつりょうこついしょくへん)を追加した新しいプレートを配置。2日後、手術後の臨床状況が良好ながら、手術中に採取した培養物から感染症が確認されたことから、抗生物質による治療を施す。
転倒骨折した2020年7月の第2戦スペインGP決勝レースから271日後、3度目の手術から134日後、2020年7月の第3戦アンダルシアGP公式予選1以来265日ぶりに第3戦ポルトガルGPのフリー走行1から走行を開始。復帰戦は7位で完走。
復帰から6戦目の第8戦ドイツGPで2019年の最終戦バレンシアGP以来581日ぶりとなる優勝、ザクセンリンクで2010年から11連勝を達成。
第15戦アメリカズGPと第16戦エミリア-ロマーニャGPで連勝した後、モトクロストレーニングの転倒が原因で2011年に患った複視が再発したことから、残りの2戦を欠場。
2022年、複視の回復を確認して、2月のオフィシャルテストに参加したが、第2戦インドネシアGPのウォームアップ走行にハイサイドから転倒を喫した際に頭部を強打したことから決勝レースを欠場。帰国途中に複視の症状が再発したことから、第3戦アルゼンチンGPを欠場したが、第4戦アメリカズGPで復帰。
第8戦イタリアGP後にアメリカで4度目の手術を受け、治療とリハビリに専念すると、第14戦サンマリノ&リビエラ・ディ・リミニGP後のオフィシャルテストに参加。第15戦アラゴンGPで復帰すると、第16戦日本GPで1071日ぶりにポールポジションを獲得。第18戦オーストラリアGPでプレミアクラス史上4人目となる100度目の表彰台を獲得。
2023年は、2017年から2018年の冬以来、本格的にフィジカルトレーニングを積むことができ、右腕が回復したことを確認したが、開幕戦ポルトガルGPでポールポジションからティソ・スプリントで3位を獲得するものの、決勝レースで他車との激突が原因で右手の第1中手骨を骨折したことから手術を受け3戦に欠場。第9戦ドイツGPのウォームアップ走行で週末に5度目の転倒を喫したことから決勝レースを欠場。
第14戦日本GPの決勝レースで通算140回目の表彰台を獲得した後、10月4日にHRCとの間で2024年末まで締結していた契約期間を、2023年末に終了することで合意。同月12日にグレシーニ・レーシングとの間で1年契約を締結。シーズン終了後に、腕上がり症状を解消するために右前腕を手術。
プレミアクラス12年目の2024年は、11年間駆け続けてきたホンダ機から1年落ちのドゥカティ機に乗り換えると、第2戦ポルトガルGPでティソ・スプリントの最高位となる2位、第4戦スペインGPで表彰台、第12戦アラゴンGPで優勝を挙げ、総合3位に進出。
フル参戦18年目、プレミアクラス13年目の2025年は、2024年6月5日に2年契約を締結したドゥカティ・コルセのファクトリーチーム、ドゥカティ・レーシング・チームから参戦。
開幕戦タイGPでティソ・スプリントとグランプリレースで優勝。ダブルウィンでスタートすると第14戦ハンガリーGPまでに7戦連続10度目の連続優勝、第15戦カタルーニャGPまでにティソ・スプリントで8戦連続14度の優勝を含む15戦連続のトップ2入りを果たし、第16戦サンマリノ&リビエラ・ディ・リミニGPまでにグランプリレースで11勝を含む14度の表彰台を獲得。
タイトル獲得に王手をかけた第17戦日本GPのティソ・スプリントで2位、グランプリレースで2位。終盤5戦を残し、怪我を克服し、引退の危機を乗り越え、2019年以来6年ぶり、チャンピオンに輝き、プレミクラスで7度目、キャリア通算9度目のタイトル獲得に成功した。