800ccクラス元年の2007年に、フレディ・スペンサー(1983年)に次ぐ最少年王者(21歳と342日)に輝いたストーナーは、父親コーリンの指導と支援の下、6歳でオーストラリア・ダートトラック選手権の初タイトルを奪取。8年間で42のタイトルを獲得した。
14歳の時に、ダートトラックからロードへの転向を試みたが、オーストラリアでは、国内選手権への参戦規定が16歳以上であることから、家族と共に欧州に移住。イギリスのアプリリアRSチャレンジ(ランク2位)とスペインの国内選手権(2戦にスポット参戦)に挑戦すると、そのパフォーマンスが評価され、ヤングライダーの発掘・育成に専従していたアルベルト・プーチの下、テレフォニカ・モービスター・チームのライダーとして、翌年の2001年にスペイン選手権(ランク2位)と英国選手権(ランク2位)にW参戦した。
2002年、ルーチョ・チェッキネロ率いるLCRから250ccクラスに初エントリーを開始。翌年も同チームから125ccクラスに転向すると、最終戦バレンシアGPで初優勝を飾り、オーストラリア人として最年少の記録を更新した。
2004年は、KTMのファクトリーチームに移籍。第12戦マレーシアGPで参戦2年目のオーストリアファクトリーに初優勝をもたらした。
2005年は、古巣LCRに復帰。250ccクラスに再挑戦して、オーストラリア人としては中量級最多の5勝を挙げ、ランク2位を獲得すると、翌年からチェッキネロと共に最高峰クラスへの挑戦を開始する。
第2戦カタールGPでポールポジション、第3戦トルコGPで2位表彰台を獲得。その一方で、クラス最多となる14度の転倒を記録。第10戦ドイツGPではウォームアップ中に連続して転倒を喫したことから、ドクターストップにより欠場を強いられた。
2007年、ドゥカティのファクトリーライダーとして抜擢され、ドゥカティ・マールボロ入りを果たすと、開幕戦カタールGPでデビューウインを飾り、チャンピオンシップをリード。史上4人目の年間10勝をマークし、オーストラリア人としては、ワイン・ガードナー、ミック・ドゥーハンに次ぐ3人目のチャンピオンに輝いた。同時にイタリアンファクトリーにチーム部門とコンストラクターズ部門の初タイトルをもたらした。
2008年は、序盤でポイントを稼ぐことができなかったが、第7戦カタルーニャGPでポールポジションを奪取すると、一気に7戦連続してトップグリッドを獲得。第8戦イギリスGPから3連勝で、タイトル争いに巻き返してきたが、第11戦アメリカGPで転倒から優勝の機会を失うと、2戦連続してトップ走行中に転倒リタイヤを喫し、2連覇への可能性が消滅した。
2009年は、開幕3連勝を達成すると、第5戦イタリアGPでドゥカティに地元初優勝をもたらし、ポイントリーダーに飛び出したが、第6戦カタルーニャGPから体調を崩し、第11戦チェコGPから3戦に欠場。復帰戦となった第14戦ポルトガルGPで2位に入ると、第15戦オーストラリアGPで地元3連勝を達成。第16戦マレーシアGPでは、史上12人目、現役ではバレンティーノ・ロッシに次ぐ2人目の最高峰クラス通算20勝目を獲得。最終戦バレンシアGPでは決勝レース前に転倒リタイヤを喫して、ランク3位を逃した。
最高峰クラス5年目を迎える2010年は、ドゥカティ・マールボロから継続参戦。ウインターブレーク中は、フィジカル面の強化に努めたが、オープニングレースで転倒。序盤はフロントの信頼性が得られなかったが、中盤から表彰台を連取。終盤に3勝を挙げたが、2年連続してランク4位だった。
2011年は、2010年7月9日に契約したホンダのファクトリーチームへ移籍。少年期から憧れていたレプソル・ホンダからウインターテストに挑むと、3度のオフィシャルテスト初日から1番時計を連発すると、デビュー戦となった開幕戦カタールGPでポール・トゥ・フィニッシュを決めると、第2戦スペインGPでは接触転倒を喫したが、第3戦ポルトガルGPから最終戦バレンシアGPまで15戦連続して表彰台を連取。
ホームレースとなった第16戦オーストラリアGPで、ポールポジションから母国グランプリ5連勝を飾り、26歳の誕生日に地元ファンの前で2度目のタイトル、800ccクラス最後のチャンピオンに輝いた。
最高峰クラスの通算100戦目となった最終戦バレンシアGPでは、ドゥーハンが樹立したシーズン12回のポールポジションを獲得して、通算3度目のBMW・M・アワードを獲得。800ccクラスで最多優勝となる33勝を達成した。
参戦12年目の2012年は、レプソル・ホンダから継続参戦。チャンピオンナンバーのゼッケン1に変更して、3度のオフィシャルテストで3連続の総合1番時計を記録した。